スコット・フィッツジェラルドの代表作
最近、スコット・フィッツジェラルドの長編『グレート・ギャツビー』が発売から100周年ということを知った。
アメリカ文学といえば、でよくあげられるぐらい有名なグレート・ギャツビーだけど、僕自身、実は恥ずかしながら未読。
野崎孝さん訳の『フィッツジェラルド短編小説集』しか読んだことがなかったり。
(「乗継ぎのための三時間」はめちゃ好きだった)
レオナルド・ディカプリオ×トビー・マグワイアの映画(2013年)なら、
公開当初にみたけれど、
JayZのラップやパーティーが派手だったこと、建築がすごいこと、U2のカバー曲がかっこよかったこと 以外はあまり覚えていないぐらいのレベル。
・・・ということで、せっかくの百周年という節目に、
ニュースレターでオンライン読書会をすることにしました。
フィッツジェラルド体験
村上春樹が「フィッツジェラルド体験」というタイトルのエッセイを書いていたのを、
村上龍のエッセイで偶然知ったので、軽く読んでみたり。
フィッツジェラルドの小説の魅力のひとつは、そこに相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていることにある。優しさと傲慢さ、センチメンタリズムとシニシズム、底抜けの楽天性と自己破壊への欲望、上昇志向と下降感覚、都会的洗練と中西部的素朴さ・・・・・・フィッツジェラルドの作品の素晴しさは、彼がこのような様々に対立しあうファクターをいわば本能的に統御し得た点にある。
また逆に言えば、その作品の弱さは彼が本能的にしかそれらを統御し得なかった点にあるとも言えるだろう。短編小説集『マイ・ロスト・シティー』より
実在とは何か? 人の意志がそこを彷徨し、試され、打ちのめされ、変革を強いられる広大な荒野である。しかしフィッツジェラルドにとっての実在とはイマジネーションと幻滅の間に横たわる巨大な空白でしかなかった。そして彼が行なったのはその空白の上に文章という名の美しく脆い橋を架けることであった。
ちょうど、はてなブログでフィッツジェラルドについて触れられたブログもよかった。
1ヶ月かけて、みんなで『偉大なるギャツビー』を読むという試み。
原文でもどの翻訳でもなんでもOKですが、
僕はいまのところ一番新しい日本語訳である、村上春樹訳で読もうかなと。
(※追記:最新訳は小川 高義さんのが最新でした・・・
僕はすでに購入してしまったのでハルキ訳で読もうかなと)
極端な言い方をするなら、僕はこの『グレート・ギャツビー』という小説を翻訳することを最終的な目標にし、そこに焦点を合わせて、これまで翻訳家としての道を歩んできたようなものである。
『グレート・ギャツビー』あとがき より
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