小説ゆかりの地
以前、カズオイシグロ原作の映画『遠い山なみの光』が、
宮本輝の『泥の河』を参考にして作られたのではないか?という話をしたけれど、
ひさびさに『泥の河』の舞台の場所へ行ってみた話を書こうかなと。
このブログ記事は、川見てる Advent Calendar 2025 - Adventar 3日目の記事です。
読んだことがない人にも情景が伝わるように『泥の河』の冒頭部分を引用してみる。
堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。

湊橋から見た土佐堀川。
川が合流し、安治川に名前を変えて大阪湾に流れていくという風景。
藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった。
安治川と呼ばれていても、船舶会社の倉庫や夥しい数の貨物船が両岸にひしめき合って、それはもう海の領域であった。
だが反対側の堂島川や土佐堀川に目を移すと、小さな民家が軒を並べて、それがずっと川上の、淀屋橋や北浜といったビル街へと一直線に連なっていくさまが窺えた。
川筋の住人は、自分たちが海の近辺で暮らしているとは思っていない。実際、川と橋に囲まれ、市電の轟音や三輪自動車のけたたましい排気音に体を震わされていると、その周囲から海の風情を感じ取ることは難しかった。だが満潮時、川が逆流してきた海水に押しあげられて河畔の家の真下で起伏を描き、ときおり潮の匂いを漂わせたりすると、人々は近くに海があることを思い知るのである。

川には、大きな木船を曳いたポンポン船がひねもす行き来していた。川神丸とか雷王丸とか、船名だけは大袈裟な、そのくせ箱舟のように脆い船体を幾重もの塗料で騙しあげたポンポン船は、船頭たちの貧しさを巧みに代弁していた。
夏にはほとんどの釣り人が昭和橋に集まった。昭和橋には大きなアーチ状の欄干が施されていて、それが橋の上に頃合の日陰を落とすからであった。よく晴れた暑い日など、釣り人や通りすがりに竿の先を覗き込んでいつまでも立ち去らぬ人や、さらには川面にたちこめた虚ろな金色の陽炎を裂いて、ポンポン船が咳込むように進んでいくのをただぼんやり見つめている人が、騒然たる昭和橋の一角の濃い日陰の中で佇んでいた。

↑ ここの「ぽんぽん船テラス」で泥の河の一人芝居も行われたことがあるんだとか。
昭和三十年、まだ馬車を引く男の姿が残っていた頃の大阪の風景を描いた小説。
今や堂山あたりは立派なビルがぼんぼんそびえたっているけれど、
ほんの70年前には、戦争の跡が生々しく残ってたんだろうなと思うと不思議な気分になる。
これが小説『泥の河』舞台の地の文学碑。

実はこの文学碑に来るのは2度目で、
2017年に小栗康平監督による映画版 『泥の河』をみた翌週ぐらいに、
用事があったときに訪れたことがあったり。 (ブログでも拙い感想書いてたり)
ちなみに映画のロケ地はここではなく、
小栗橋という名古屋の橋らしい。
文学碑を訪れた後は「大阪・関西万博デザイン展」に行ってミャクミャクに込められたデザインのねらいを読み解いたりして、それもなかなか良かった。
宮本輝という方、若い人は知らないだろうけれど、まだご存命の作家さん。
最近は富山の薬売りの小説を書いていたりするのをちらりとニュースで読んだり。
あと、調べていると、追手門学院も宮本輝ミュージアムがあるのを知った、次用事あるときに行かねば・・・。
宮本輝のいわゆる"川三部作"の中で、だんとつに好きな作品で、
人生で読み返した回数 TOP3 には入るぐらい好きな小説だったり。
短いほぼ中編のような作品なので、小説好きの方はぜひとも。