機械が止まる / E.M.フォスター
ObsidianのCEOであるSteph Ango氏が、E.M.フォスターの「機械が止まる」というSF短編小説おすすめしていた。
ちょうどその本を積ん読していたこともあり、「せっかくだから」と該当の短篇を読んでみると、AI社会、SNS、コロナ禍、ストリーミング配信、ディストピア、みたいなものを予見しているかのような小説だったのでびっくり。
しかもこれ、100年以上前に書かれた作品なのよね・・・。
ということで軽く内容や感想をまとめようかなと。
(※ちなみに以前紹介した記事はこちら)
あらすじはこんな感じ。
人間が五感を通じて直接物事を経験することを恐れて、それぞれが孤独に部屋に閉じこもったまま、機械を通じての連絡だけで満足するようなった未来社会。
あるとき、母ヴァシュティは、地球の裏側にいる息子クーノから電話を受けるが・・。
(僕が考えたあらすじなので色々省いてます)
ちなみにこの「The Machine Stops(原題)」が書かれたのは 1909年。
はてな匿名ダイアリーで30年前の日本のSF小説が話題になっていたけれど、
この「機械が止まる」は1世紀以上前(1909年)に書かれた作品。
夏目漱石の『吾輩は猫である』が1907年に完結したと考えると、
EMフォスターが異色すぎて頭の中のライムラインがバグってくるレベル。
時代背景としては、19世紀半ばのロンドンはすでに地下鉄が走っていて、
電話が普及し始めていたりする頃。
飛行機はまだ発明されてはないけれど、飛行船は実用化が始まっており
蓄音機やサイレント映画もこの頃から普及が始まったあたり、というイメージ。
当時の英国と日本の技術力の差を改めて思い知らされるなと。
「機械が止まる」を読む前は、E.M.フォスターにSFのイメージは一切なかったけれど、
ぐぐってみると、楽観主義的なH.G.ウェルズの批判をしていたらしく、そういう意外な一面もあったらしい。
・・・ということで下記、印象に残った文章や感想をまとめていこうかなと。
ネタバレも多少込みで書いていくのでご了承を。
彼女には数千人の知人がある。ある方向に、 人間との交際が途方もなく進行していた。
まさにSNSっぽい世界観。。
「機械」を通してじゃなくて会いたい。うんざりする「機械」を通してじゃなくて話したいんだ」
「ちょっと、あなた!」漠然とした恐怖に襲われた母親が言った。「「機械」を貶すようなことは、絶対に言っちゃ駄目よ」
「機械」では、微妙な表情が伝達できないという設定もあったり。
・・・実際にZoom会議でこれを経験した人も多いはず。
機械が監視してそうなところもいかにもディストピア小説っぽい感じ。
ただ、この作品では『1984年』ほど完璧な監視社会、ってわけでもないのが面白い。
地球の表面は塵と泥ばかりで、生きてるものは何も残ってないの。それに、人工呼吸器が必要になるわよ。さもないと、外気の寒さで死んでしまう。外気に触れるとすぐに死ぬのよ」
みんな、地下のシェルターみたいな部屋に住んでいる設定。
この頃のSFは、ヴェルヌの『地底旅行』とかウェルズの『タイムマシン』とか、
地下世界に未来を見ていた傾向にある気がする。
それらの質問の大部分に、彼女は苛立たし気に答えた。―――苛立ちは、その加速した時代に顕著に現われ出した特徴だった。
加速したネット社会のイライラ感、みたいなのをこの当時から書いていてすごい。
「ああ、機械さま! ああ、機械さま!」と呟き、唇に「ご本」を当てた。三度口づけをし、三度お辞儀をし、三度、黙認の生む忘我の境地に達した。
もはや神的な扱いをされている機械。
ChatGPTをこんな感じでもてはやしている人をSNSで見かける気がしなくもない。
「「無宿」」処分にするぞって脅されてるんだ。そんなこと、「機械」を通して言えなかったんだ」
「無宿」は死を意味した。その刑を受けた者は大気に曝され、そうして死ぬのである。
「この前お母さんと話したあと、僕ずっと外に出てたんだ。物凄いことが起こったんだけど、見つかっちゃったんだ」
人間は滅多に身体を動かさなくなった世界にもかかわらず、地球の表面に出ていった話をする息子。
怖かったのは、電気が通ってるレールに触って感電死するってことじゃなかった。もっと漠然とした――「機械」が考えてなかったことをするってことだった。でも、思ったんだ、「人間が尺度だ」って。
いや、ほんとに今大切なやつ。
蒸気機関車の時代にここまで考えているのは素直にすごい。
というのも、クーノは父親になりたいと申請したにも拘わらず、 「委員会」によって却下されていたからである。クーノは、「機械」が次世代に残したいと思うようなタイプの人間ではなかった。
その人に備わる能力で人生が決まるという、映画『ガタカ』みたいな設定も。
僕たちの肉体と意思を麻痺させてしまった。そうして否応なしに、僕たちにその 「機械」を崇め祀らせてるんだ。「機械」は進歩してる――でも、僕たちの線に沿ってじゃない。「機械」は進んでる――でも、僕たちが目指すゴールに向かってじゃない。僕たちが存在してるのは、ただ「機械」の血管をめぐる血球としてだけなんだ。だから」 もし「機械」が僕たちなしでも作動できるんなら、僕たちを死なせてしまうだろうな。だけど僕には解決策なんてない――
こういうのを読むと、手放しに人工知能を推し進めるだけなのはやっぱりどうなんだろう、と思ったりもしてしまう。
『「機械」の書』を手にしたときに感じる不思議なやすらぎ、単なる聴覚に対してはほとんど意味をなさない、「ご本」に記されている数字を反復するときの喜悦、どんな些細な用件に関するものであれ、ボタンを押すとえつきに訪れる陶酔、あるいはほんのちょっとでも電動ベルを鳴らすときに覚える無我の境地、について語り始めたのである。
新しいプロンプトをSNSで見つけて気持ちよくなっている人、を揶揄しているように深読みもできる。
何人も、「機械」は手に余るものになったと告白しはしなかった。年ごとに、「機械」崇拝の巧妙さ、効率が増し、その知性は減少した。人が 「機械」に対する己が義務について知れば知るほど、隣人の義務については無知になり、 世界中で、その怪物を全体として理解する者は皆無になった。そういう卓越した頭脳はずでに死に絶えていた。
ここはChatGPT以降の現代だからこそ響く文章。
...「人類」は安楽さを求めて背伸びをしすぎた。自然が埋蔵する富を使い果たしてしまった。静かに、安らかに「人類」は頽廃の淵に沈みこみ、進歩とはすなわち、 「機械」の進歩に他ならぬことになった。
確かに今の人類も、人類の進歩というよりは機械の進歩に置き換わってないか、と思える節もある。
「「機械」が止まってる、ですって?」友人は答えた。「どういう意味なの? そんな言葉、私にはまったく意味をなさないわ」
ChatGPTがある日急に使えなくなる、なんて信じられない人もいるんじゃないかな。
彼らはしかし、不具合にもう腹を立てることがなかった。欠陥は修復されなかったが、この後半期の人体組織は極めて従順になっていたので、「機械」を襲うどんな気まぐれにもすぐに順応したからである。
交響曲の一番良い部分で"吐息"が混じるようになっても、気にしなくなる母。
ポエムマシーンがでたらめな韻を踏むようになったり、お風呂が悪臭を放ちはじめたり、睡眠用ベッドがセットされなかったり、どんどんガタが出てくる「機械」。
ChatGPTも性能が突如がた落ちすることが度々あったけれど
それを想起させる展開だった。
人間がAIに適応している節はあるよね・・・。
最終的には「機械」が破綻する日が来る。
ああ、明日―――その明日に、どこかの愚か者が「機械」をまた動かすんだわ」
「絶対そうじゃない。絶対に違う。人類は教訓を学んだんだ」
・・・最後は本を読んで見届けてほしいなと。
ざっくりまとめると、
・人々は直接顔を合わせずに通信機器を通してコミュニケーションを取っている
・人間関係の希薄化
・SNS社会
・「機械」が不調をきたす
・Spotifyみたいな音楽サービス
・機械を崇拝する人間
・身体を動かさなくなる人間
etc...
それぞれ蜂の巣型の部屋に閉じこもっている≒コロナ禍のロックダウン、という深読みをするのも面白いかも。
それはさておき、
AI、SNSの本質的な部分を(1900年代にしては)かなりの精度で予期したような短編小説だった。
タイムマシン、 ガタカ、すばらしい新世界、1984年、華氏451、ゼロ・グラビティ、ナウシカ、ブラックミラー etc...
上記のワードにピン、とくるものがあるSF好きの人なら読んで損はないはず。
この短編時代は56ページほどのすぐ読める内容なので、寝る前にでもどうぞ。
E.M.フォスターの作品は実はこの『E.M.フォースター短篇集』しか読んだことがなくて、有名な長編『インドへの道』『眺めのよい部屋』『ハワーズ・エンド』はどれも未読。
どれから読めばいいんだろうな~。
長くなったので、そろそろこの辺で。