訃報の裏側を知る
諸岡達一という死亡記事専門家の本『死亡記事を読む』を読み終えた。
個人的に印象に残った部分をいくつかまとめていこうかなと。
死亡記事は、新聞の紙面割で言えば、おおかた社会面の最下段に載っている。小さい記事ではあるが実は読み応えがある。いや、ありすぎる。さまざまな情報が書きこまれており、仔細に行間まで読み込むと、意外な事実が現われてくるからだ。 位置55
死亡記事で注目すべきは、各紙によって扱いが大きく異なるコトだ。その死した人物への価値判断が紙面に如実に表れるのである。訃報を取り扱う新聞社の(とっさの)態度は興味深い。さらに死亡記事からは、現代性・社会性の濃淡を垣間見ることもできる。
具体的な死亡記事でいうと、
中埜又左エ門氏(なかの・またざえもん=ミツカングループ本社社長) の死亡記事から、落語家や、美空ひばりさん、
寅さん役をしていた渥美清さん、
オードリーヘップバーン、
暴力団組長
・・・などなど、色んな分野の有名人について例を挙げ、
各新聞社がどう報じたかなどについて書かれているのが興味深かった。
まずは死亡記事の役割やなぜ必要かにについて。
死亡記事の定型基本フォームだけを観察すると、そこに書かれた情報の種類は、葬儀・告別式(ないし通夜)に参列するであろう関係者、花輪を、生花を、香典を届ける、または弔電を打つ関係者のために書かれたデータといっていい。
なるほど。
死亡記事は他のメディアが(いまのところ)やらない活字情報である。
確かに、お悔やみ欄があるのは新聞ぐらいかも?(雑誌とかでもたまにあるけど)
死亡記事は新聞社の才覚が問われるネタである。記者のセンスと姿勢も問われる。常識の度合や博識度も問われる。歴史文化感覚も問われる。社会世相的知識も問われる。
一人の人間が死ぬ。その人は、新聞でどの程度の価値として取り上げればいいのか、第一面か、社会面か。見出しは必要か、傍線でいいか。顔写真は必要か、経歴はどの程度載せるか。その人間のナニが重要かで、死亡記事の扱いは違ってくる。
新聞社として、人の死をどう扱うか。
しかも何十万人という人に読まれる新聞なので、なかなか難しい話だなと。
その昔、ニュース価値判断を語るとき、「犬が人を嚙んでもニュースにはならないが、人が犬を嚙んだら、それはニュースだ」という冗句があった。
「死亡記事も勝負しろ!?」という章も興味深い。
苅田久徳と野平祐二に話を戻すが、両者のニュース価値は、結局、担当編集記者のその時の心のうちでしかない。ホンネとタテマエを両立させながら「好き・嫌い」「知る・知らない」で死亡記事は扱われる。
美味しいビールが飲める、
というお店の店主さんの死亡記事の例もよかった。
明治四十二年、現在の神田駿河台下・三省堂書店近くに創業した「ランチョン」の二代目。当初、洋食店だったが、大正末期から生ビールに力を入れ……〝鈴木さんのついだ生ビール〟のファンも多かった。
「なぜ、ここのビールはおいしいのか?」と聞かれると「おいしいビールは理屈じゃない。愛情です」と答えるのが口ぐせだったという。
アメリカの死亡記事にありがちだけど、
こういう本人の口ぐせが載っていると知らない人でも一気に親近感が湧いてくる。
当然、担当デスクもいるだろう。そのデスクは、アメリカやイギリスで言えば、新聞編集局に存在するオビィチュアリー(死亡記事)・デスク(Obituary Desk)だ。 欧米でははっきりした部組織になっている。すなわち「死亡記事記事部」。
以前もブログで書いたように、死亡記事専門のライターが当たり前のようにいるのはすごいよね。
日ごろからしかるべき人物の経歴評伝その他の収集を怠らず、
"誰がいつ死んでも紙面対応できる体制が出来ている"そうで。
アメリカの例しか知らないけれど、欧米圏以外の他国だとどうなんだろう?
とふと思ったり。
事実、欧米の新聞では死亡記事が手厚い。「OBITUARIES」と題したページが連日あったりする。たっぷり書く、懇切に書く、詳細に書く。写真も大きく、カバー・ストーリーにも匹敵 する大記事になっている。この「人物を書く」ことを大事にする精神こそジャーナリズムの原点である。
繰り返し言おう。新聞社は「死亡記事部」を設置すべきだ。「惜別」「追悼抄」欄がその萌し、と信じたい。
インターネットで日本でも(一応) 死亡記事を読めるようにはなってきているけれど、
朝日新聞も読売新聞も有料会員しか読めないんだよね・・・。
長くなってきたのでこの辺で。
短文ながらも、新聞社の実力が見える死亡記事の魅力や裏側。
ニッチなトピックだけれども、「人の死」というものに興味のある方はぜひとも。
ニューヨークタイムズの死亡記事に関する本もぜひ。